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■豊田城と彼岸花

豊田城と彼岸花

豊田城1_WEB

 朝夕は少し寒いぐらいの10月2日に地元の史跡を見学する会が開かれ参加して来た。私の住んでいます天理市・豊田町には中世の山城があり、本ブログでもしばしば出てくる写真風景に中に、その山城「豊田城跡」が有ります。(赤い矢印)
ここは「大和青垣国定公園」の中間地点で集落も近く、大和平野を治めるのには都合の良い立地で当時の勢力地図では重要な場所でもあったらしい。
 その日は朝9時に山のふもとに40人ぐらいの「にわか歴史ファン」が集まり、天理大学の考古学を学んでおられる自称「城大好き人間」で日本や韓国、アジアの城を相当勉強しておられる4回生の学生さんのガイドで案内していただいた。集合場所では本日の企画をしていただいた山田さんが、今日のために立て看板や案内資料をボランティアで準備していただいた。
豊田城2_WEB
豊田城3_WEB


 受付をしてから簡単な説明を講師の先生に聞いて、いざ登山開始である。 私はこの近くは小さい時から登って遊んでいましたので、さほど珍しくは無かったが、体力の衰えはさすがにこたえた。細い山道をに登って行った訳だが、後で聞くとこの細い道はあえて防衛のために1人しか登れないようにわざと急な斜面に作ったそうである。
(なるほど納得である!)
豊田城4_WEB

途中、この山城の門に当たる「虎口」で先生の話を聞いた。みなさん息絶え絶えで、膚寒かった気温だが、汗びっしょりであった。ここが豊田城の入り口で、敵を威嚇(いかく)したそうでる。
豊田城5_WEB

近くには山田さん特製の看板も設置されていた。
豊田城6_WEB
豊田城地図_WEB


 その周囲には「空掘」と言う敵の侵入を防ぐ地形を上手く利用したバリア(人口の溝)が、今でもはっきり巡らされているのが確認できた。
この豊田城の背景は、室町時代の中期、大和北部では越智党と筒井党の二大勢力がぶつかっていた。豊田氏は興福寺の衆徒として布留郷に勢力を張っていた豪族で、豊田頼英の時代に越智党に属し、近郊に勢力を伸ばしていたらしい。大和平野の治安(警察の役目)と地元住民の敵からの攻撃の際の避難城にも使われていたようである。まるで当時は戦争ゴッコの様であったかも知れない。
 標高は180mで現在も4か所の郭と土塁、空堀の後などが残っている。さらに竪堀が数本あり、左右に回り込む敵を阻んだ、非常に頭脳的な山城であったらしい。これまであまり整備がされておらず、規模は小さいが、当時を忍ぶ貴重な城跡と言えるようだ。様々な戦の後、明応7年に(1498年)に炎上し落城したと言われている。その後、永禄11年に織田信長の後援を得た松永久秀が再度落城し、現在までその城跡だけが残っているのである。
 我々はさらに本丸跡を目指して登り続けた。途中には地形を匠に利用した空堀で敵の侵入を防いだ後が随所に有った。
豊田城7_WEB

 いよいよ本丸のある頂上に続く道に着いた。登りきると300坪程度の平ら台地あり、雑木が無ければ大和平野が一望できる眺望が得られたと思える光景が広がった。
豊田城8_WEB
豊田城9_WEB

 山頂ではこの史跡を今後どのようにするかも話し合われましたが、静かに今の状態を保つのも保存の方法かもしれない。歴史ファンに知られてたくさんの人が登るのもいかがなものか、との意見も出た。
約2時間の見学会であったが、久しぶりに地元の歴史に触れて、いつも見慣れた風景にも歴史とロマンがあふれた地で生まれた幸せを感じた。帰りの田んぼの周りには今が盛りと彼岸花が咲き誇り、短い秋を満喫させてもらった。
彼岸花1_WEB


 午後からは甲子園で阪神の最後の応援にはせ参じましたが、惨敗であった!今年はこれで終わりかな?来年こそ、新たなメンバーでGOGOタイガースだ~~~~!
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